霊の起源

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今だに霊感商法の被害が絶えない。
先般も統一教会系の団体が絡んだ霊感商法被害の話題が、新聞に載っていた。

勿論一番悪いのは霊感商法を仕掛けてくる奴らだが、しかしそれに輪を掛けて罪深いのが、マスコミだと思う。
細木某女だの宜保ナニガシだのとイカガワシイ人物を、視聴率の為だけに番組に登場させ、持ち挙げ、公共の電波の権威と影響力を使って、あたかも霊だのたたりだのが実在するかの様な雰囲気作りに加担してきた。

様々な霊感商法やオウム等がまかり通った背景には、そう言ったワイドショウの影響による精神的蒙昧が少なからず有った筈だ。しかしマスコミはそう言った結果には一切責任を取らない。

同時に被害者の方も、もういい加減に自分の愚かさを自覚した方がいいと思う。
これだけ騒がれ、これだけ被害や手口が報道されているにも関わらず、いまだに引っ掛かるとしたら、酷な言い方だがもうあまり同情されないだろう。
私はもとより「霊」だの「あの世」だの、一切信じていないが、しかしどちらかと言うとこう言う人間・考えの方が、逆に少数派なのだろうとも思っている。

おそらく半分以上の人が、何らかの形で「霊」とか「あの世」の存在を、漠然とでは有っても信じているんじゃないかな。
本来なら最も科学的な雰囲気で有るべき大学の学園で、統一教会などに染まる人がいるってことも、そう言う精神的風土の反映だろう。


「霊」が本当に有るとして、じゃあそれは一体身体のどこに所属しているのだろうか?
身体全体?、脳?、或いはハート?

人工心臓や心臓移植をした場合、或いは将来医学の進歩で、脳以外の臓器をアチコチから全て移植した場合、霊はどの人のどこに憑いているのだろうか?、一つの身体の中でどう折り合いを付けるのか?、脳死の場合はどうなるのか?
脳を持たない動物もいるが、その場合、動物霊だとか前世からの生まれ変わりはどうなるのか?

そもそも「死」と言うのは、瞬間的なことではなく、有る程度の時間的経過を伴う現象だ。「脳死」と言う言葉自体それを表わしている。
心臓や肝臓など、殆ど全ての器官はそれだけで暫くは生きている。そうでなかったら移植も出来ない。脳だってそのうち、単独で生かしておけるようになるだろう。
一体、霊は何時の時点で「生体」から離脱するのか?

等など、etc、エトセトラ.........。
是非、細木数子大霊能師様にお伺いしたいものだ。どっかの局で対決させてくれないかな。


伝統仏教の人たちもキチンと言ってくれている。
本来仏教には、そもそも霊の祟りだの、まして先祖霊が子孫に祟るだのと言う考え方は有り得ないのだそうだ。
水子霊や先祖霊などを持ち出して、祟るとか災いとか言い始めたのは最近のことで、みな金儲けの手段として言っていることだと。

だから安心して今の、現実の生活をこそ大事にして欲しい。

...とまあ、ここまでは霊感商法とそのお先棒を担いできたマスコミへの、私の激しいイチャモン。
それから若しかしたら、その被害に逢うかも知れない「ア・ナ・タ」への警告と言うことで、次に、そもそも「霊」と言うものの起源と、古事記、ギリシャ神話に見る「あの世」の様相を考えて見ましょ。


「霊」「霊魂」の起源は「夢」だ、と言う説が有る。私もこの説に一票。

科学的知識の殆ど無かった原始時代、遠く離れている人や、既に死んでいる人が、夢の中に現れることの説明として、辻褄合わせに「霊魂」が考えだされたのだろう。

身 体ソックリの形で有りながら、しかし現実の身体とはまるで作りが違い、普段は身体のどこかに住んでいてその身体を動かし、時として身体から離れ、時空を超 えて自由に行動し、死に際しては身体とスッカリ離れて、身体が焼かれようが埋められようが朽ちようが、その姿を自分に見せてくれる。

そう言うモノとして「霊魂」の存在を解釈するしか、夢の中の現象を説明できなかったんだろう。
そして朽ちる身体よりも、普遍的なモノとしての霊魂の位置づけが定まり、人間の考えや感じ方は、身体そのものの働きとしてではなく、背後の霊魂の働きだとみなされたのだろう。

人間の身体や精神活動について、未だ全く無知だった原始人にとって、それは止むを得ない、当時としては精一杯の合理的な推論だったにしても、この考え方は実は、実践的には大変な不都合をもたらした筈だ。
なにしろ自分の預かり知らぬ他人の夢の中で、自分の「霊魂」が行った行動に対し責任を負う羽目に陥った訳だから。

このことがどんな不安と恐怖を人々に与え、現実にどんな不幸を人々にもたらしたか、およそ想像がつく。
「霊魂」はおそらく、その誕生の始めから「迷惑千万」以外の何物でもなかった筈です。


所で霊魂が身体の死後も独立に生き残るとして、その先それはどうなるか?、と言う問題が生じる。どう考えればいいのか?
永遠に生き続ける、と考える他有りません。

元々、死すべき身体との対比で考えだされた霊魂で有って見れば、身体の死後、改めてその死に方が考えられる言われは無かったのです。
「霊魂の不死」と言う観念は、「霊魂の誕生」を想定した時から必然的に生じた、実は止むを得ない厄介モノであって、「死後のなぐさめ」的考えは後に生まれたものだろう。

この辺の事情を雄弁に物語る証拠を、ギリシャ神話と日本の神話に見ることが出来ます。

ギリシャ神話では、死んだ妻エウリディケを追って冥界を訪ねるオルフェウスの話が出て来る。薄闇の中を一切の喜びを奪われ、影のように生きるものとしてそれは描かれています。
古事記でも同じく、イザナミを黄泉の国に訪ねるイザナギの話が出て来るが、こちらもあらゆる穢れに付きまとわれ、すさまじい姿で暗やみに横たわる生活として描かれています。

どちらも穢れと絶望の中、しかも永遠に生き続けなければならないものとして、「あの世」と霊魂の姿が考えられていたのであって、到底「死後のなぐさめ」などでは無かったのです。

その点、原始時代の人々は一般的無知の為、霊魂の存在と不死と言う考えを抱きながらも、この大地の上、太陽の下での現実の生活こそが、真に生きるに値すると考える、健康な現実主義者だったんでしょうね。

「あの世」が「死後のなぐさめ」となって行く過程は、この現実の世界に様々な支配・被支配の関係が入り込み、人間関係の中に疎外と絶望が「現実」に感じられてゆく過程と、それを現実から覆い隠す思惑とが、おそらく裏腹の関係で絡んで来たのだろう。

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このページは、が2009年11月23日 05:56に書いたブログ記事です。

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