感性と理性
水の中に箸を斜めに入れれば水面を境に折れ曲がって見えます。
これは錯覚(錯視)でもなければマジックでもなく、ましてや妄想でも有りません。それが正当な感覚であり、100人いれば100人そのように見るでしょう。
しかし箸に触って撫でてみればどこも折れていないと感じられます。
前段は視覚による感性的認識、後段は触覚による感性的認識(人間の認識は必ずことばが介在するから、純粋な感性的認識は無いと言われる)。
どちらも同じ感覚同士の認識であって、この場合どちらの感覚を頼りにして良いのか、これだけでは判断出来ません。
しかし箸の角度を変えれば折れ曲がる角度も変わってくるし、水に入れる深さを変えれば折れ曲がる位置も連続的に変わってきます。
箸を水から出すと、箸は真っ直ぐで折れた痕跡も見当たりません。
箸のような硬いものが、角度や位置を変えて連続的に折れたり、一旦折れたものが修復することは、通常有り得ない、と言うことを過去の膨大な経験を元 に演繹し、視覚による認識が誤で、触覚による認識が真だと判断したとすれば、それは感覚を超えた理性的認識になる訳です。理屈を言えば。
タバコが硬貨のような硬いものを通過する筈が無い、と言う理性を、一般的な現代人は既に身に付けていて、だからこそ手品として楽しめるのでしょう。
しかしこれをかっての未開の部族や、遠い過去の時代にやって見せたら、いっぺんでシャーマンになれること請け合いです。
いわゆる超常現象や超能力を、それだけで何の疑問も無く信じる人と、他との連関の中で「そう言うことは有り得ない」と判断して「何か裏が有る筈だ」と問題意識を持てる人の差は、理性の差でも有るんでしょうね。
